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私の人生の中で唯一、生命の危機に見舞われた瞬間と父が死ぬ瞬間の心臓マッサージについて


これまでの人生で私が唯一の生命の危険に直面したことが一度だけありました。2012年12月20日の夕方のことでした。

数日前より風邪を引き39℃近くの熱がありましたが、会社の近くの医院で点滴を打ってもらい抗生物質と解熱剤を処方してもらい仕事を続けていましたが、全身に皮膚炎を発症したため近くの病院の皮膚科を受診しました。

発熱があり、全身に皮膚炎が出ており、服用している薬の副作用である 薬疹 であり、緊急を要するとの診断で、診察を受けた病院ではなく、自宅から一時間半ほど離れた薬疹の専門の昭和大学東病院に入院するように言われ、推薦状も書いてもらい、私がすぐに入院できるように連絡も入れてもらいました。

急ぎ、自宅で入院の支度を済ませ、病院に向かいました。

今まで受診したことのない病院なので、ネットで調べて東急大井町線の旗の台駅が最寄駅だったことは理解していました。

しかし、病院へ向かう途中、溝の口から乗った東急大井町線では、既に高熱のため、全員に寒気が走り体が震えていました。

旗の台駅の改札を出た頃には目もかすみ、歩行も相当に困難でしたが、前方に見える巨大な建物の病院を目指して、一歩、一歩、必死で歩きました。



あと一歩 との思いで、最後の力を振り絞って、何とか病院の受付まで辿り着きました。

受付の事務の方が 「うちの病院を受診したことは初めてですか?」 などの、一連のマニュアルに沿った質問をしてきましたが、普通ならば頑張って回答するのですが、もう対応できる力など、私には残っていませんでした。

申し訳ありませんが、この中に必要情報が記してある筈なので、対応をお願いします!

私は最後の力を振り絞って、推薦状の入っている封筒を事務の方に渡したのですが、私の様態の酷さを事務の方は気に留めて下さらず、更に事務的に質問を行ってきました。

もう無理だ と諦めての気持ちが過ぎった直後、病院の廊下に倒れた記憶があります。

近くを歩いていた看護師さんが、倒れた私に気づいてくれて、4~5人のお医者さんがいる、テレビ番組で、しばしば放映される救急車などで運ばれてきた生命の危ない患者さんに緊急処置を行うような部屋に運ばれたことを記憶していmす。


本日(6月10日)、NHKで 救急現場 命をめぐる葛藤 という番組が放映されるということだったので、録画していました。

なぜならば、この番組の舞台となる救急現場が、私が運び込まれた 昭和大学病院 だったからです。

翌日、病院の方が、病院の事務の方の対応を 申し訳ありませんでした と謝って下さったのですが、高熱と酷い悪寒のために思考力が鈍っていたとはいえ、私にも重大な誤りがあったのです。

私が入院を予定していた皮膚科が入っているのは、同じ旗の台が最寄駅でも、昭和大学病院ではなく、そこから徒歩で5分ほど更に先にある昭和大学東病院だったのです。



仮に、正しく理解していたとしても、あの病状で、更に5分、歩くことは出来なかったので、結果は同じだったかもしれませんでしたが、私は同じ系列の間違った病院に行ってしまっていたのでした。

とはいえ、相当に危ない状況だったため、何人ものお医者さんが、急ぎ、手当を開始してくれました。

(高熱のため)体全体が寒くてガタガタ震え、満足に呼吸が出来ずに苦しかった記憶があります。

「この人、40℃も熱があるよ」 とお医者さんが言っていた記憶があります。

同じく、測定した血圧も、きっと酷い数値だったのでしょう。

数値までは聞き取れなかったのですが、数値が悪いために、それを聞いた周りのお医者さんが驚いていた声の記憶は残っています。

呼吸が苦しく、医療用の機械で酸素を送ってもらったのですが、それでも全く楽にはなりませんでした。

そして、最も辛かったのは 悪寒 でした。

とにかく寒く、意識を失ってしまいそうな辛さでしたが、ここで意識が無くなってしまうと 危ない と直感したので、意識を失わないように必死で頑張っていました。

そのような状況の中で、お医者さんが 「家族の方に駆けつけてきてもらうよう連絡したいので、連絡先を教えて下さい。喋るのが辛ければ、何を見て連絡すれば良いのか指示を下さい。」 という女性のお医者さんの声が聞こえてきました。

「私の生命が危ないのですね?」

という私の質問に

「そういう訳ではないのですが、念のため、ご家族にも来て頂いた方が良いので‥‥」

と、お医者さんは、回答します。

「私の自宅は、ここから一時間半ほどの遠くにあります。自宅には高齢の母がいますが、母に駆けつけてもらっても、この(遠い)距離なので、このまま生命が尽きてしまえば、間に合わないでしょう。年老いた母を心配させたくないので、絶対に呼ばないで下さい! だから、連絡先は教えられません。」

私は、こう回答して、お医者さんに連絡先を教えることを強く拒絶しました。

それと同時に、絶対に死ぬものか! 最後の勝敗を決めるのは、人の強い意志だ! と心に誓い、この苦しい状況に、決して負けずに立ち向かうことを改めて決意しました。

実は、お医者さんの、連絡先を教えて下さい! から始まる問答は、今回だけでなく、しばらくすると再開され、記憶では、5回ほど、同じような問答が繰り返されました。

どれぐらいの時間が経過したのかなどは、リアルタイムでは全く実感がなかった中で、時が経過した後、私があまりに寒さで震えていたことに対し、(きっと電子レンジか何かで)温めてくれた点滴を入れてくれた後、徐々に悪寒が和らぎ、呼吸も楽になっていきました。

峠を越えて生命の危機を脱した という実感がありました。(後に時間を照合すると、危険な状況だった時間は二時間弱ほどだったようでした)

本来、入院すべき、離れた別の場所にある昭和大学東病院へ車で運んでいただき、最低限の必要な検査を皮膚科病棟で行ってもらいましたが、その頃には、すっかり呼吸も元通りになり、寒気もまったくなくなり、自力で立ち上がることも出来るようになっていました。

会話もお医者さんたちと普通に出来るようにまで回復しましたが、体温だけは、未だに39.8℃もありました。

危険な状態だった時に何度も私に、家族への連絡先を質問して下さった先生は、この時点で判明したのですが、私が異なる建物で倒れたとの連絡を聞き、離れた東病院から駆けつけてきて下さった皮膚科の先生でした。(その後、退院まで、そして、退院後の通院での診察でも、私を担当して下さった先生でした)

ここまで回復すると、(まだ、入院する病室までは行っていない検査室にいましたが)急に喉の渇きと空腹感を覚えました。

水分は、その場で取らせてもらいましたが、空腹は ‥‥‥ 。

既に夕食の時間を30分ほど過ぎていましたが、私の担当の先生に、お腹がすいているので、お願いをして、病院食を残しておいてもらえるよう連絡していただきました。

検査も終わり、車椅子で病室まで運んでいただき、待望の夕食となりました。



担当の先生は 「まだ、40℃近い高熱がありますから、一口でも二口でも食べて、無理をしないで大丈夫ですから!」 と言って下さりました。

何とか、生命の危機を乗り越えた私には、理屈ではなく本能的に後列な食欲 がありました。

しかも、昔と違って、病院食の味は美味しいので、何の無理もなく、美味しく完食しました。

「本当に無理して食べてなかったですか? 大丈夫ですか?」

と言って下さったお医者さんに

「それよりも、まだ、食欲が満たされてないのですが、ご飯のおかわりとかはないですよね?」

と真剣にお医者さんに、私は質問しました。




この写真が実際に、当日、私が食べた夕食で、食べる前に写メしたものです。

勿論ですが、病院食におかわりなどなく、既に、この時間は病院のコンビニも閉店してしまっているとのお医者さんの回答でした。

そういえば ‥‥ と思い出したのは、荷物の中に、チョコボールが1箱だけ入っていたことだったので、お医者さんに見せて、食べて良いかの質問したところ、許可がいただけたので、美味しく頂戴しました。



これも、当日に撮った写真です。

お医者さんは、私の生命力に裏付けされた食欲には驚いていらっしゃいましたが、それでも、全身に皮膚炎が発症して、点滴を入れる場所を探すのにも苦労する酷い病状でした。



その後、8日間、入院した後、12月28日に何とか退院することが出来ました。



退院時の病院の入口には、既に来年の正月飾りがされていました。

本日のNHKのテレビ番組では、救急現場に運びこまれてくる患者さんの多くは、患者さん本人が、既に会話が出来ない、または、会話がとても困難な場合が殆どだそうです。(私の場合は、後者でしたが、一人だったので、頑張って自力で会話をしましたが、誰かがそばにいれば、一任していたかもしれません)

患者さん本人ではなく、家族の方が、「何とか(どうなっても構わないから)生命だけは助けて下さい!」 とお医者さんに訴えるケースが、とても多いそうです。

緊急を要する場面なので、時間をかけて、ご家族と会話をする時間の余裕などないので、ご家族の希望の達成を最優先に考えた治療が行われるとのことだそうですが、結果として、助かる場合もあれば、助からない場合も、勿論あり、その結果に対して、ご家族の、その場の希望に沿って行ったことが、本当に良かったのだろうか? という思いに駆られることがあると、救急現場のお医者さんが語っていました。

そのお医者さんの話を聴いた時、私が緊急入院した前年に他界した父のことを思い起こしました。

危篤となった父に対して、心臓が停止してしまった時の心臓マッサージの時間は何分間続けるか? という家族の希望を回答するようお医者さんに求められていました。

父の場合は、入院して死亡するまでに40時間ほどあったので、時間的な余裕があり、お医者さんに、心臓マッサージの有効時間とリスクについて、教えていただくことが出来たので、蘇生率の高い5分間だけ実施というお願いをしていましたが、父が死ぬ日の早朝、改めてお医者さんと会話する機会があり、父の場合、心臓マッサージをして蘇生する可能性は程んどなく、逆に強い力で胸部を押すため、最初の1回で肋骨が折れてしまう場合もあると教えていただき、心臓マッサージの実施そのものを不要 との家族の要望を変更し、その日の夕方、父は肋骨が折れることもなく、安らかに息を引き取りました。

当時の様子は、下記のURLのBLOG記事に載っています。
http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/61e0c8b9de4430e0d48c3fe1bf868025




他の一話完結・番外編・その他のBLOG記事は下記になります。
http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/6fb93531a650944a79df8f17953f0b2f
シリーズものでない一話完結の話を掲載しております。




--- その他の連載中のシリーズとなります ---


シリーズ「世の中に物申す」
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どのような不利益が降りかかったとしても、世の中に発信していかなくては‥‥と
私の心が揺れ動くことを微力ながらも発信しています。




シリーズ「認知症の父の自宅介護」
http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/357b83df4b2f1613c2fa5e366d6d96e3
育ててくれた親が病気になれば、介護をするのは人として当たり前のことです。(写真は大昔に父が箱根へ連れていってくれた時の写真です)
そんな父への介護のピークは、どの施設からも(病状が酷く)受け入れを断られ、2002年~2011年までの間に朝5時~夜中の2時まで毎日続けた自宅介護でした。



シリーズ「美味しいもの」の他の記事の一覧は下記のURLとなります。 
http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/d50801e93535e5d591d2f926236429cf



シリーズ「心の偏差値」
http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/cb3273f5b779ad947160f885015d4e38
頭デッカチ、頭がいくら良くても、本当に大切なのは心の豊かさ、その思いを綴っております。



シリーズ「音楽の素晴らしさ」
http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/7e3b92fd45e0082610ac0f53b1c957c1
音楽の素晴らしさを私の拙い文章でどこま表現できるかわかりませんが、記していきたいと思います。



シリーズ「世界が実力を認めたピアニスト 川上敦子さん」
http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/ab144349ca849a6e6f7e8514a704a86e
既にシリーズ掲載を完了している 伝説のピアニスト 川上敦子さん(全25話)の続編にあたります。



シリーズ「日本を思う」
http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/405be3999114db53c15c40c8f9074e75
私が生まれ育った日本。 この日本を思う心を綴っていきたいと思います。



シリーズ「DIY 自分で作ったり修理したりする」
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下手ですが、私の趣味のDIY関係を載せていきます。



シリーズ「歴史あれこれ」
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学校の授業で教わる歴史とは違った切り口で、歴史の話を伝えていければ ‥‥ と思っています。



シリーズ「遠き日の想い出」
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発掘された小学校三年生(1975年)の日記や写真を中心に子供の頃の楽しかった想い出を振り返ります。




私がFacebookで掲載している記事をダイジェストで載せています。
http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/b3416c4cddea8f8ef7dd0788fcd1aa47



--- フォトチャンネル ---

中之院 軍人墓地(浅野祥雲作 コンクリート軍人像)

http://blog.goo.ne.jp/photo/345518/pn/998a93d920ac6fc629b72a2140f2079d



桐朋高校(2013年2月20日撮影)
http://blog.goo.ne.jp/photo/361077/pn/53a1984a2aab483eebc270ed29581ecd



--- 既に掲載完了済みシリーズ ---



伝説のピアニスト 川上敦子さん (全25話)
http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/425e60748dfa331bec8b445953003a7a

演奏不可能と言われたリストの超絶技巧練習曲(1837年版)を日本で初演したピアニスト
川上敦子さんのことを掲載したシリーズです。
最終話:2015年3月11日掲載  川上敦子さんから頂戴したお心

2015年11月 特別追加掲載(2話を追加)
掲載日 2015年11月29日  2016年4月28日にカーネギーホールでのリサイタル【特別追加記事002】




祖母の思い出 (全第14話 最終話を掲載)
http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/4816511909af978673200140e1fbc228

4人の祖父母の中で唯一、長い交流のあった私が32歳の時に他界した祖母の思い出を記したシリーズとなります。
最終話:2015年6月10日掲載  多くの教えと思い出をありがとう。(シリーズ最終話)




重度の介護が必要だた父の緊急入院から納骨まで (全21話)
http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/c203e74471097ecc448cff62eae56542

重度の介護状態で自宅介護を受けていた父が緊急入院して他界してしまった話を記したものです。
最終話:2014年11月29日掲載  認知症でも、まだ手が動かせていた頃の父が描いた絵





愛犬パークの15年の生涯 (全18話)
http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/a8ccdc94c043ada8644af3606c3c34a5

保健所で殺処分されるところを助けられた生命。我が家に様々な想い出を残してくれた愛犬パークの15年の生涯を綴ります。
最新話:2015年11月30日掲載  母の腕の中で静かに天国へ旅立って逝ったパーク





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2016/6/11 0:00:09

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